「the inverse care law」と「Deep End」

(まえおき)
 路上の医療相談会に参加させていただくようになって少し経ち、この頃は相談会にボランティアや見学者として来る学生と会う機会が増えてきた。
 そんな学生に、相談者が途切れた隙間に手短にお話しすることがいくつかある。今日もその中の1つをテーマに、書き残してみることにする。これから続く誰かにとって、少しでも役に立てるように。

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 どうして今の活動をしているのか、という問いに対して、これまでの記事では主に自分の過去の体験からくる内発的な動機について書いてみた。
 今回は、自分の活動を正当化するための理屈みたいなものについて書いてみる。

 「the inverse care law」。
 自分の活動を語るうえで恐らくキーとなる概念。どうして家庭医が社会経済的に困窮した方々のケアに尽力する必要があるのかを教えてくれる。

 「医療資源の逆分配の法則」とでも訳すのか。50年以上も前に発表された論文に記されたこの概念を、私はつい昨年まで全く知らなかった。

 the inverse care lawとは、社会経済的に困難な状況に置かれている方々ほど病気の罹患率や死亡率が高く潜在的により手厚いケアを必要としているにもかかわらず、実際にはより少ない医療ケア資源しか分配されておらず、むしろ社会経済的に恵まれた方々が相対的により多くのケア資源にアクセスできる状況のことを表現したものである。と私は理解している。

 ケア資源がその必要性とは逆に(inverse)分配される傾向がある、という法則で、英国の伝説的な家庭医(GP:General Practitioner)、Julian Tudor Hart医師により1971年にLancet誌に発表された。
Lancet. 1971 Feb 27;1(7696):405-12.

(GPを家庭医と訳して良いのかという議論はここでは扱わないこととする。)

 この論文では、低所得者層(未熟練労働者)の健康状態が損なわれている一方で、高所得者層はより多くの質の高い医療サービスにアクセスできる傾向にあり、疾病による死亡率や罹患率に明らかな社会経済的不平等が存在することなどが論じられている。(この状況は日本でも同様で、2005年に近藤克則医師の『健康格差社会(第1版)』に記され、当時多くのメディアで取り上げられた。)

 Julian Tudor Hart医師はこの法則を、現代社会に存在する欠陥の1つであると述べ、これを解決していくには単にすべての人へのケアを改善するだけでは不十分であり、ケア資源の選択的な再分配が必要だと論じた。つまり、ケア資源を市場原理から切り離し、(購買力に応じてではなく)必要性に応じてケアが提供されるようにケア資源を適切に再分配する必要があると述べている。
(この考えは、自分にとって必要な支援を求める力、支援希求力が乏しい方々にこそ積極的に専門職側が行動を起こしていくアウトリーチにもつながると思われる。)

 最も手厚くケア資源が分配されるべきは、最も深刻な困窮状態にある人口集団やその地域であり、これは「Deep End」と呼ばれる。
Occas Pap R Coll Gen Pract. 2012 Apr;(89):i-40.
 そして、inverse care lawを乗り越えていくためにDeep Endに対して多職種で質の高いPrimary Careを提供していく臨床実践を行う診療所がDeep End Practicesであり、そうした第一線を担う臨床医たち(GPs)が地域ネットワークを形成して診療の質を高めていく取り組みが「Deep End Project」である。

 このプロジェクトは、Julian Tudor Hart氏による「the inverse care law」が推進要因となって2009年にGraham Watt氏によって英国スコットランドのDeep End Practiciesで働く医師(GP)を集めた運動として起こった。その動きは次第に世界に広がり、2022年には日本初のDeep End Projectである「GPs at the Deep End 川崎/横浜」が金子惇医師らを中心として立ち上がっている。
https://deependnenc.org/wp-content/uploads/2022/08/DE-BULLETIN-7.pdf

 私の目標は、このDeep Endでの医療実践を担える医師・医療職を養成できるようになることであり、そのためにまず自分自身が「Deep End家庭医」として必要な力量を1から身につけていくために現在の活動に取り組んでいる。

 the inverse care lawやDeep Endについて私はまだまだ理解不足であるし、進行中の実践でありそこからの教訓が日々刷新されているため、私自身も実践を積みながら学習を続けていきたい。
 次回以降ももう少しこのネタについて書いてみたいと思う。

 

 

「どうしてこの活動してるんですか?」という問いへの答え③

(まえおき)
 路上の医療相談会に参加させていただくようになって少し経って、この頃は相談会にボランティアや見学者として来る学生と会う機会が増えてきた。
 殆どの学生から尋ねられるのは、「どうしてこういう活動をされてるんですか?」という質問。
 その時々で頭に浮かぶままに話すので答える内容も少し違うと思うけれど、今日は今日の気分で書いてみる。
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 今の活動につながる契機としてもう1つ、学生時代の重要な体験がある。それは「派遣村」への参加だ。
 2008年、アメリカの投資銀行リーマン・ブラザーズ」の経営破綻を契機に、世界恐慌(1929年)以来の世界金融危機、いわゆるリーマン・ショックが発生した。同行の負債総額は約64兆円(当時の日本の国家予算は約83兆円)で、アメリカ史上最大の企業倒産であった。
 この世界的大不況は例外なく日本にも波及し、結果として非正規雇用者を中心した「派遣切り・雇い止め」により失業率は戦後最高水準の5.5%、完全失業者数は364万人に達したという。
 住み込みで仕事をしていた派遣労働者は首切りと同時に住まいを失い、それ以外にも多くの人が生活の糧を失い路頭に迷う事態が生じた。これに対し、生活困窮者の相談窓口となる公的機関が休業となる年末年始にかけ、東京・日比谷公園で複数のNPO労働組合らが協同して「年越し派遣村」を開催し、炊き出し、生活労働相談、医療相談、宿泊場所の設置が行われ、失業者約500人が訪れたという。
 
 当時、地方で生活していた私は報道を見るのみで直接この活動に関わることは無かったが、翌春、不況の影響は私の住む地方都市にも顕著に現れていた。正式に把握されているだけで4000人超が雇い止めとなり、そのうち500人以上は住所不定のまま職場の寮から退去を強いられ(全国の1/4)、ハローワークへの相談は激増して役所も対処しきれなくなっていた。
 これを受けて地方でも「派遣村」を開催しようという動きが起こり、知人からお声掛けいただき「派遣村」実行委員会に参加した。
 「派遣村」開催案内のチラシを配布し始めると間もなく深刻な相談が集まった。大不況のなか自営業を続けていたが脳梗塞で入院し、医療費の支払いも困難、再就労もできず、借金がかさんで自殺を考えていた人などはその一例。路頭に迷っている方へのアウトリーチとして夜回りを行うと、半身麻痺で記憶の障害も著しい方が公園で身動き取れなくなっている状態で発見された。近くにいた路上生活の方の話では、1週間前に体の異常が生じたため警察に保護されたものの、カップラーメンを与えられて公園に連れられ置いて行かれたと。
 地域の方々と一緒に実行委員として商店や官公庁に協力のお願いや広報チラシの配布にまわり、夜はアウトリーチに加わり、活動内容を伝えるニュースを作成した。派遣村の当日は、自分からは医療相談ブースに訪れず炊き出しを頬張って休まれている方々へ健康状態について声を掛けて回り、許可があれば簡単な診察をさせてもらい、必要に応じて医師につないだ。訪れた方々から「この会(派遣村)は今日で終わっちゃうんですか?」と声を掛けられ、事前の準備過程も通して切実なニーズに触れることになった。
 
 自分が直接的に社会的な課題に対して地域の中に入っていってそれに組み付いていくという体験、支援を必要とする人とその切実な声に直接に触れる体験は、この時が初めてだったのではないかと思う。
 自分が生かされている感じがした。誰のため、何のために生きるのかということを体験的に教えられた気がした。当時、悩み傷つき自分の芯がまるで見えなくなったような時間を生きていた私にとって、ここに自分が生きる理由があるような気がした。今回感じた自分を突き動かす感覚に忠実でいれば、そこに自分の生き方の答えがあるような気がした。それで自分の人生にYesと言えるような気がした。この時の感覚はその後も自分を支える強い力となり、ゲロ吐きそうなほどの卒業試験や国家試験の重圧にも折れない拠り所となった。
 日々目の前のことに追われて流されてしまい、何か大切なことや自分が進みたい道を見失うということが多い私にとって、この時の体験から得た感覚が現在までに何度も心の中のコンパスのようになって自分が行くべき方角を示してくれている。
 今もそんな道のりとして、Deep End家庭医になるべく現在の活動に身を置いている。そこで人々との関りの中に身を投じてみることでしか到達できないところに向かって。

雨飾山より、来し方を振り返る。

「どうしてこの活動してるんですか?」という問いへの答え②

(まえおき)
 路上の医療相談会に参加させていただくようになって少し経って、この頃は相談会にボランティアや見学者として来る学生と会う機会が増えてきた。
 殆どの学生から尋ねられるのは、「どうしてこういう活動をされてるんですか?」という質問。
 その時々で頭に浮かぶままに話すので答える内容も少し違うと思うけれど、今日は今日の気分で書いてみる。
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 前回、経済的困窮による医療アクセスの障害について問題意識を喚起させられたきっかけについて書いた。
 
 その1年か2年後、私にとって衝撃的な書籍が世に出た。近藤克則医師の『健康格差社会』だ。
 このころの私は、生物医学的な要素以外のことによる健康への影響、殊に社会経済的に不利な状況が生み出す健康問題について関心を抱くようになっていた。(後にそれは「健康の社会的決定要因(SDH:Social Determinants of Health)」という概念であることを知る。)学生同士の学びのテーマとして国民健康保険の資格者証について扱ったり、困窮世帯への訪問看護に同行したり、困窮世帯が多く住まう団地から病院までの道のりを高齢者体験キットを装備して移動するという体験学習を行ったりしていた。
 そんな中で『健康格差社会』が発刊された。しかも幸運なことに、著者・近藤克則医師にインタビューさせて頂く機会を得た。高揚感をもって読み進めた。関心を持ち始めた社会経済的要因による健康問題について、圧倒的なデータをもって提示されていた。読者を誘う読み物としても秀逸だった。経済困窮に向き合うことが、単に政治的志向性の問題ではなく医学的な課題であることを、様々なデータをもって示していた。これによって私自身の中に芽生えていた問題意識が医師という専門職に必要な視点であることが示されたようで、励まされ、自信をつけられたように思う。近藤克則医師に実際にお会いした際には、学生時代に何を体感して何を学んでいったのか(大学の正規の教育以外について)、そこから今の研究に至る過程などについてお話いただき、どちらかというと学外での学びに楽しみを感じていた自身の行動も後押し頂いたような感覚を得た。社会に接続した生きた学びは当時の大学の中には無かった。
 その後、ソーシャル・キャピタルについても多少の理解を深め、まちづくり、コミュニティ形成について関心を抱くようになる。路傍の花壇を見たり、散歩途中で腰を下ろして語らう高齢者の姿を見たりしては、そうした街のあり方にケアを感じるようになった。自分の眼に映る景色がこれまでと違う意味をもつようになり、そこに自身がどう関われるか、自分の存在を重ねて考えるようになった。そういうことを口にするようになると、ケアのまちづくりを目指す病院スタッフ(殆どは事務系だった)から関心を持たれて何度となく語らうようになった。この地域をどう変えていくか、そこに自分自身を重ね合わせながら考えるようになっていた。大学時代を過ごした土地は、それまで何の縁もない土地だった。物価が安くて生活できそうで、割と入学試験に受かりやすいという理由で選んだだけだった。医師免許を取得する目的のためだけにやってきた土地だったけれど、気づけばその土地で自分がどうやって地域のケアに関わるのかということを妄想するようになっていた。
 自然と、医師の働き方とは医療機関の中にいるのみではないものとして認識するようになっていた。これも今につながる大事な経緯だったと思う。

1月の滝子山にて

「どうしてこの活動してるんですか?」という問いへの答え①


 路上の医療相談会に参加させていただくようになって少し経って、この頃は相談会にボランティアや見学者として来る学生と会う機会が増えてきた。
 そんな学生に、相談者が途切れた隙間に手短にお話しすることがいくつかある。出会った相談者への対応内容に関することや、学生の関心ごとなど、内容はその時々で異なる。といっても残念ながらまだネタがあまり多くない。
 そんなわけで、自分のネタを蓄積するためにも、あとで学生に読んでもらえるようにするためにも、その時々で学生に話した内容をここに書き残してみることにする。
 
 殆どの学生から尋ねられるのは、「どうしてこういう活動をされてるんですか?」という質問。
 その時々で頭に浮かぶままに話すので答える内容も少し違うと思うけれど、今日は今日の気分で書いてみる。
 
 最初のきっかけは恐らく大学1年生の時の実習。これは学校の授業としての実習ではなくて、個人的に市中病院で行ったもの。
 当時の私は、自分の病の体験から、いわゆる統合医療に関心を持っていた。これはある知り合いの町医者(私の親戚いわく「ゴッドハンド」)から言われたことだけれど、かつての世界4大文明にはそれぞれの文化圏にそれぞれの医療が存在した。アホな高校生だった私にはそれだけで「へ~!」と興奮気味になったが、帰りの電車の中で思った。世界の文明やら文化圏って4つだけじゃないよね。てことは、その数だけ医療が有っていいんだよね。どれが絶対に正しくてどれが絶対に間違いということではなくて、それぞれに文化の見方で人間の「健康」を捉えて、そこにアプローチを試みている。そんな色んな見方考え方を統合するようなことができたら、西洋医学一辺倒の治療では解決されない病にある人たちの健康も取り戻すことができるんじゃないか。そんなお花畑思考で大学を目指し、見事に受験に失敗し、浪人して医学部に滑り込んだ。そして最初の実習で衝撃を受けることになる。
 この時の実習は、医師を含めた多職種について回る体験をしたはずなのだけど、覚えているのは医療ソーシャルワーカーのことだけ。
 「医療費が払えないから、保険料を納められないから、病院に来られない人たちがいます」。医療ソーシャルワーカーはそう言って具体的な数を示してくれた。驚いた。自分が18年間も住んでいた地域だった。自慢じゃないけど私も小学校時代はお小遣い1か月数十円という生活で、文房具を買えばお小遣いが消えてしまうようなひもじさだったけれど、病院にかかれないという経験はなかった。行きたくもない歯医者にも散々通わせていただいたし。想像がつかなかった。ガツンと頭を殴られた気がした。「4大文明?統合医療?生ぬるいこと言ってんじゃないよ。お前がどんなに頑張って仮にそんな医療を実現したって、お金が無いから病院に行けませんって言われたら何の意味もないじゃない。お前は考えが甘い。」頭の中でそういう声が響いた。なんだかクラクラする思いで実習から帰宅した気がする。国民健康保険の資格者証という存在もそこで初めて知った。そしてまた別の機会に、保険料の納付も困難な彼らがいったいどんな生活をしているのか、お願いをして実際にお話を伺わせていただく機会も得た。何とか医療費を収めて何とか生活しているおばあちゃんの家から帰ろうとしたとき、敷居に頭をゴンとぶつけて、頭を撫でられて胸が熱くなった。
 経済的困窮による医療アクセスの障害。その後の長い学生生活で、大学の先生方からは1度もそんな実態を教わることは無かったけれど、自分にとってそれは生き方を左右されるような学びだった。
 この学びを他の学生にも伝えたくて資料をまとめてレクチャーを作ったりして、そうする中で問題を自分の中に内在化させていた。この問題意識がずっと自分の深部に植えついていった。
 
 これが、私が今の道にいる大きな節目の1つ。

雪解けの滝子山にて