「どうしてこの活動してるんですか?」という問いへの答え③

(まえおき)
 路上の医療相談会に参加させていただくようになって少し経って、この頃は相談会にボランティアや見学者として来る学生と会う機会が増えてきた。
 殆どの学生から尋ねられるのは、「どうしてこういう活動をされてるんですか?」という質問。
 その時々で頭に浮かぶままに話すので答える内容も少し違うと思うけれど、今日は今日の気分で書いてみる。
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 今の活動につながる契機としてもう1つ、学生時代の重要な体験がある。それは「派遣村」への参加だ。
 2008年、アメリカの投資銀行リーマン・ブラザーズ」の経営破綻を契機に、世界恐慌(1929年)以来の世界金融危機、いわゆるリーマン・ショックが発生した。同行の負債総額は約64兆円(当時の日本の国家予算は約83兆円)で、アメリカ史上最大の企業倒産であった。
 この世界的大不況は例外なく日本にも波及し、結果として非正規雇用者を中心した「派遣切り・雇い止め」により失業率は戦後最高水準の5.5%、完全失業者数は364万人に達したという。
 住み込みで仕事をしていた派遣労働者は首切りと同時に住まいを失い、それ以外にも多くの人が生活の糧を失い路頭に迷う事態が生じた。これに対し、生活困窮者の相談窓口となる公的機関が休業となる年末年始にかけ、東京・日比谷公園で複数のNPO労働組合らが協同して「年越し派遣村」を開催し、炊き出し、生活労働相談、医療相談、宿泊場所の設置が行われ、失業者約500人が訪れたという。
 
 当時、地方で生活していた私は報道を見るのみで直接この活動に関わることは無かったが、翌春、不況の影響は私の住む地方都市にも顕著に現れていた。正式に把握されているだけで4000人超が雇い止めとなり、そのうち500人以上は住所不定のまま職場の寮から退去を強いられ(全国の1/4)、ハローワークへの相談は激増して役所も対処しきれなくなっていた。
 これを受けて地方でも「派遣村」を開催しようという動きが起こり、知人からお声掛けいただき「派遣村」実行委員会に参加した。
 「派遣村」開催案内のチラシを配布し始めると間もなく深刻な相談が集まった。大不況のなか自営業を続けていたが脳梗塞で入院し、医療費の支払いも困難、再就労もできず、借金がかさんで自殺を考えていた人などはその一例。路頭に迷っている方へのアウトリーチとして夜回りを行うと、半身麻痺で記憶の障害も著しい方が公園で身動き取れなくなっている状態で発見された。近くにいた路上生活の方の話では、1週間前に体の異常が生じたため警察に保護されたものの、カップラーメンを与えられて公園に連れられ置いて行かれたと。
 地域の方々と一緒に実行委員として商店や官公庁に協力のお願いや広報チラシの配布にまわり、夜はアウトリーチに加わり、活動内容を伝えるニュースを作成した。派遣村の当日は、自分からは医療相談ブースに訪れず炊き出しを頬張って休まれている方々へ健康状態について声を掛けて回り、許可があれば簡単な診察をさせてもらい、必要に応じて医師につないだ。訪れた方々から「この会(派遣村)は今日で終わっちゃうんですか?」と声を掛けられ、事前の準備過程も通して切実なニーズに触れることになった。
 
 自分が直接的に社会的な課題に対して地域の中に入っていってそれに組み付いていくという体験、支援を必要とする人とその切実な声に直接に触れる体験は、この時が初めてだったのではないかと思う。
 自分が生かされている感じがした。誰のため、何のために生きるのかということを体験的に教えられた気がした。当時、悩み傷つき自分の芯がまるで見えなくなったような時間を生きていた私にとって、ここに自分が生きる理由があるような気がした。今回感じた自分を突き動かす感覚に忠実でいれば、そこに自分の生き方の答えがあるような気がした。それで自分の人生にYesと言えるような気がした。この時の感覚はその後も自分を支える強い力となり、ゲロ吐きそうなほどの卒業試験や国家試験の重圧にも折れない拠り所となった。
 日々目の前のことに追われて流されてしまい、何か大切なことや自分が進みたい道を見失うということが多い私にとって、この時の体験から得た感覚が現在までに何度も心の中のコンパスのようになって自分が行くべき方角を示してくれている。
 今もそんな道のりとして、Deep End家庭医になるべく現在の活動に身を置いている。そこで人々との関りの中に身を投じてみることでしか到達できないところに向かって。

雨飾山より、来し方を振り返る。